流星と昴の日本神話
速の章

速玉之男

(つば)の神・速玉之男(ハヤタマノオ)は「神の(つば)=流星」。対で登場する(ははき)の神・泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)は「掃星(ははきぼし)=彗星」。

 

(つば)の神」と「(ははき)の神」

速玉之男(ハヤタマノオ)ハヤタマノオ)は『日本書紀』神代上第五段一書第十に登場する「(つば)の神」である。伊奘諾(イザナキ)尊は亡くなった妻の伊奘冉(イザナミ)尊に会うため黄泉(よもつくに)へ行き、その後、黄泉(よもつくに)から帰る際に「(つば)の神」を速玉之男(ハヤタマノオ)、「(ははき)の神」を泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)と名付けている。

(つば)の神」と簡略化して述べたが、原文は「所唾之神」つまり「(つは)(ところ)の神」であり、伊奘諾(イザナキ)尊が吐いた(つば)速玉之男(ハヤタマノオ)となったと解釈できる。

(ははき)の神」の原文は「掃之神」だが、この「掃」の字は一般的には「()く」「(はら)う」といった動詞として解釈されている。

例えば、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(おおのすすむ)校注『日本古典文学大系67 日本書紀 上』(岩波書店、一九六七年)では「掃之神」を「(はら)ふ神」と()(くだ)している。

小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注/訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀1』(小学館、一九九四年)では「(はら)ひたまへる神」と()(くだ)している。

宇治谷孟(うじたにつとむ)訳『日本書紀(上) 全現代語訳』(講談社、一九八八年)では「掃きはらって生まれた神」と現代語訳している。

確かに一般的な漢和辞典などには「掃」の字に「はく」「はらう」といった読み、意味があるとは書かれていても、「ははき」という読み、意味があるとは書かれていない。

しかし『古事記』に「掃持(ははきもち)」、『万葉集』巻第十六、三八三〇番歌に「玉掃(たまばはき)」と使われている実例があるように、「掃」は名詞の「ははき(ほうき)」の意で使われることがある。

このため「掃之神」はそのまま「(ははき)の神」と解釈するのが自然である。

 

(つば)の神」と「(ははき)の神」の意味

(つば)の神」と「(ははき)の神」というのは、いずれも奇妙な神であり、対で登場しているにも関わらず関連が無い様にも思える。これについては「見立て」として考えれば関連が見えてくる。

まず「(つば)の神」とは、流星を天の神(伊奘諾(イザナキ)尊)が吐いた(つば)に見立てたもので、流星の神の意と考えられる。

そして「(ははき)の神」とは、彗星を(ははき)に見立てたもので、彗星の神の意と考えられる。彗星は掃星(ははきぼし)とも言う。

流星の神と彗星の神なので、共に「尾を持つ星」の神という関連があることになる。

そして「(つば)の神=流星の神」速玉之男(ハヤタマノオ)の神名に「速」が付き、「(ははき)の神=彗星の神」泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)の神名に「速」が付かないのは、流星は速く、彗星は速くはないためと考えられる。

 

各文献における名前

・『日本書紀』……速玉之男(ハヤタマノオ)

・『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』……速玉之男(ハヤタマノオ)

 

神名解釈

神名解釈については【玉の章/速玉之男】で後述する。

 

まとめ

・速玉之男(ハヤタマノオ)……流星の神

(つば)の神・速玉之男(ハヤタマノオ)は流星を天の神の(つば)に見立てたもので流星の神、対で登場する(ははき)の神・泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)は彗星(掃星(ははきぼし))を(ははき)に見立てたもので彗星の神。共に「尾を持つ星」の神。

・「(つば)の神=流星の神」速玉之男(ハヤタマノオ)の神名に「速」が付き、「(ははき)の神=彗星の神」泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)の神名に「速」が付かないのは、流星は速く、彗星は速くはないため。